期待 [2024/11/28,09:33:33]
新刊が出ると必ず買ってしまう作家が数名いる。これが要するに、わたしにとって「大好きな物書き」といっていい人たちだ。その一人に角幡唯介がいる。彼の新刊は『地図なき山』(新潮社)。サブタイトルは「日高山脈49日漂泊行」だ。もうタイトルからサブタイトルまで言うことはない。仕事中でも読み出しかねないほど、よだれの出そうな魅力的な書名だ。光のない北極を旅する物語以上のものを期待して、さっそく本書を読み始めた……のだが、期待はすぐに失望に変わってしまった。少し残酷な言い方だが、これはダメ、彼の著作の中では一番つまらない、これが正直な読後感だ。「よりよく生きるために私は地図を捨てた」という「はじめに」は、彼のこれまでの冒険行を理論的に振り返る、なかなか読ませる出だしだったが、本体の、地図なしで彷徨する山の物語は、読者がすっかり置いてきぼりで(なにせいっさいの固有名詞が出てこないのだから)、独りよがりの自己満足釣り紀行のような物語で終わってしまった。本人は楽しそうだが、読者は何も楽しくない。大好きな作家の一人なので、期待が大きくから失望も大きかったのかもしれない。読後はしばらく呆然としてしまったのだが、といっても最後までちゃんと読んでいるのだから、そんじょそこらのアウトドアライターとはレベルが違う。次回作に期待するしかない。頼むよ角幡さん。
ハタハタ [2024/11/27,09:27:05]
ハタハタの漁獲量は禁漁明け(95年)以降で最低となった去年と同程度の漁獲量、と報じられていた。そういえばここ数年、ハタハタを食べていない。まあ食べなくても死ぬわけではないが、海水温度の上昇による海洋環境の変化が原因なのだろうから、単に資源の問題ではない。自然環境が原因だから、たんに食文化といった域を超えた難題なのである。同じ時期、山形の庄内の海でサンゴの一種「キクメイシモドキ」が見つかっている。北限が新潟・佐渡島と考えられていた造礁サンゴだ。北限が80キロもいきなり上がったのである。これも厄介な問題だが、ハタハタと根は同じ。それにしても北の荒れ狂う日本海にサンゴが生育している絵面は想像しにくいが、現実だ。こうした身近な「事件」で地球温暖化の現実を知ると、本当に背筋が寒くなる。
捨てる [2024/11/26,09:50:28]
少しずつ「モノ」を捨て始めている。衣類に始まって寝具類、バックから文具、食器類まで、毎週45リットルのごみ袋一つぐらいの分量のモノを捨てている。モノを買い集める趣味はないのだが、捨てられないタイプなのだ。何十年も前のセーターだとか、一度も使わない筆記具とか、事務所に集まる大人数に対応する食器類とか、そんなものがタンスの肥やしになってあふれている。いつか使うと思って捨てていないのだが、後期高齢者になってわかった。もう使うことはない。事務所には10人くらいの宴会ができる設備まで整えている。食器からテーブル、大型冷蔵庫まで、シャチョー室に完備しているのだから恥ずかしい。根気よく、毎週45リットルずつ、淡々と処分を続けていくしか、道はない。精神的には結構しんどいのだが、モノに囲まれて消えていくというのは、やっぱり後味が悪い。
ザ・日曜日 [2024/11/25,09:40:47]
絵にかいたような日曜日を過ごした。昨日は一日中、事務所にいなかった。朝から買い物に出た。車でだ。買い物が終わると近所のコインランドリー。布団カバーや寝具回り、足ふきマットやじゅうたんなど、家の洗濯機ではできないオオモノの洗濯だ。45リットルゴミ袋2つ分だから、かなりの分量だ。ついでに登山靴も洗うつもりだったが、靴用洗濯機が故障中、これだけは別の店に持っていくことになり二重手間になってしまった。洗濯が終わると、郊外の映画館で上映中の「海の沈黙」を見に行く。封切り映画を見るなんて何十年ぶりだ。映画の後は、家まで帰り、そこから」駅裏まで歩き、気になっていた小さな蕎麦屋さんで晩酌。チビチビぬる燗をなめながら蕎麦をすすって大満足。千鳥足で家に帰るともう7時半。テレビではWBCの台湾戦を中継していて、寝床横には新刊の角幡雄介『地図のない山』が早く読んでよと待ち構えていたが、どちらもパス、早々と寝床に倒れこんでしまった。仕事をしないのも結構疲れるのだ。いや酒の酔いのせいかな。
変化 [2024/11/24,19:00:01]
家の屋根のハリが雨で崩れ落ちたのだが、どうやら保険がおりるらしい。その書類を届けるために契約している保険会社を訪ねたらびっくり。若者たちが入るような巨大な倉庫をロフト風に改装した、ほぼニューヨーク風(行ったことはないが)の建物の一角に保険会社があった。保険会社とロフトという取り合わせが、うまく像を結ばない。コンクリート打ちっぱなしのワンフロアーおふぃっすというのは想定外だった。同じ建物の中には小さな書店まであった。立ち寄ってみると、われらが70年、80年代のサブカル系の本だけを扱っている、かなりマニアックな独立系書店だった。なんだか若いころの自分の本棚を見ているようで、落ち着かない。でもご祝儀に結構高い本を一冊買ってしまった。せっかく外に出たので、駅東側の入り組んだ小にある小さな蕎麦屋さんに入った。ここも若い人がやっているようで、昔ながらの蕎麦屋の節度を守りながら、モダンっぽい香りを残した蕎麦屋さんで、おいしかった。知らないうちに町はどんどん変わっていく。小さいけれど本屋も蕎麦屋も、若い人たちの手で引き継がれている。頑張ってほしい。
プレッシャー [2024/11/23,10:04:08]
先月あたりから身辺が何となくあわただしい。来客もそうだが、メールでの連絡や、電話がかかってくる回数が明らかに多くなった。その多くは仕事に関してのことなので大歓迎だが、昔と違って、話がきてすぐに仕事が始める、というケースはめったにない。何度も細部を詰めながら、長い時間をかけて形になっていく。ひとつの仕事が決まるまで、以前に比べれば数倍の時間がかかるようになったのだ。これもまあ時代なのだろうが、昔は電話での2,3回の連絡だけで、本人と会わずに、本だけは猛スピードで出来上がっていた。現在の能力から言うと、年に10点くらいの本を作るのが限界だろうか。それ以上になると、もう手が回らない。ヒマよりは忙しいほうがいい。これは正直な気持ちだが、忙しくなるとプレッシャーもハンパない。そのプレッシャーと戦う気力が年々薄くなっている。
昭和 [2024/11/22,10:10:59]
「置き本」について書くのは久しぶりだ。「置き本」の命名者は故・池内紀さん。要するにトイレの中で読む本のことだ。私も数冊をトイレに置いておき、その日の気分でパラぺらページをくくるのが日課だ。その置き本で夢中になり、30分以上トイレから出られなくなったこともある。今の置き本は、出久根達郎『隅っこの昭和−−モノが語るあの頃」(草思社文庫)。出久根といえば「古本」が定番だが、「昭和のモノ」について書いても絶品だ。昭和といっても戦後の話。1話が原稿用紙5枚程度、1,2分で読めてしまう分量なのもいい。著者が小学校に上がったのが昭和25年。私が生まれたのはその翌年だ。モノの欠乏から戦後は始まり、モノが過剰に出回って昭和は終わる。モノを通してみた昭和だが、もちろん「あの頃はよかった」的な懐旧エッセイではない。わらづと、ちゃぶ台、ざるにたらい、ズロースもあれば肥後守、往来手形にDDT、練炭、七輪タブ、福袋と、味わい深い100篇近いエッセイで構成された昭和への愛借文集である。なかには「竜馬暦」「麻幹(おがら)」「特攻花」といった、こちらが全然見当のつかない「モノ」もの交じっている。著者の挿絵も数点使われてて、微妙にヘタウマなのだが、味がある。このところの「置き本」ではトップクラスに入る本だった。
食べ物 [2024/11/21,09:46:11]
先日、到来物について書いたが、友人が「もう、この年になると食べ物のいただきものは有難迷惑だね」という。友人とはほぼ同い年だが、毎日食べるものは年とともに決まり、かつ少食になる一方だ。だから、たまに豪勢なブランド食品をもらっても、そこまでは「腹が回らない」という。こちらは酒やお菓子をいただくと、まだ無理やりにでも腹に収めようとする卑しさが残っている。でも一方では、友人の言うように、食指の動かない食べ物をもらってもガックリ来て、「誰に譲ろうか」と悩むことも多くなった。自分の好きなものだけいただきたいのだが、そううまく世の中はできていない。けっきょく食べ過ぎて自分の「食のリズム」を崩してしまう。毎年、お世話になっている数名の方にお歳暮のようなものを届けている。やはり食べ物だ。来年から、それはもうやめようと思っている。なんだかやはり、友人の言葉には説得力がある。
ケチ [2024/11/20,09:48:54]
『桐島聡逃げる。』という本を読んだ。サブタイトルは「悲しき49年の逃亡生活」だ。連続企業爆破事件のテロリストとして今年、死の3日前に本名を明かして逝った人物の、その謎の潜伏生活を追ったもの。久々のタイムリーなノンフィクションだな、と期待大だったのだが、ちょっと違った。まるで自分の期待したものとは別物の読みもので、釈然としないまま、それでも最後まで読んでしまった。面白くないとわかったら、そこでやめればいいのだが根がケチなせいで最後まで読んでしまう。これは悪い癖である。猛省だ。ところで、新しいパソコンになってから、異常なほどクソメールが増えてしまった。これも腹が立つ。毎日、50件ほどのゴミを削除するのに、けっこうな時間を奪われている。なんかいい方法はないのか。
ひこばえ [2024/11/19,10:03:29]
朝起きたら2階から見える近所の屋根屋根が真っ白、初雪だ。若いころは、初雪を見ると、ついに来たか、と少し震えるような興奮と感動もあったが、今はただただ、また雪か、とうっとうしさでうなだれる。年々、年とともに寒さに弱くなっていく。昨日、郊外を車で走っていたら、見渡す限り、青空の下、青々とした田んぼが広がっていた。ちょっと見には「今は田植えか」と錯覚するような光景だった。この時期に「青々」という表現も変なのだが、要するに「ひこばえ」である。初雪の季節に、昔もこんなふうに青々とした田んぼが広がっている風景は、記憶にない。初雪と、まるで田植え時のような青々とした田んぼの取り合わせは、何とも奇妙な印象だ。このひこばえを利用して雪国でも「二期作」ができないか、という稲作研究のニュースがあったのは今年だ。ひこばえの米って、たぶんめちゃおいしくなさそうだ、残念ながら。

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