◇境の明神から下野(栃木県)へ
そこ(陸奥との境の明神)から北は黒羽領、南は芦野主膳領という入り口の右の方に「遊行柳」(注1)があって、その上に温泉の大明神(注2)がある。このお宮の門の奥に「野辺の清水」があり、「片葉の芦」(注3)があるそうだ。
三里八丁で芦野(注4)へ。ここは芦野主膳様五千石の城下である。ここまでの間に小さな村が二、三か所あった。
三月二十一日、越堀(こえぼり)(注5)まで二里半。宿は柳屋武右衛門の旅籠で、宿賃は百二十四文だった。
宿場の出口に那須野川という川がある。その上流六里に殺生石(注6)があり、宿場の境の川だという。
二十二日。鍋掛(なべかけ)(注7)まで六丁。この間は那須野が原(注8)で、練貫(ねりぬき)村に御種人参(注9)の畑がある。
大田原までは三里で、ここから日光道に入った。ここは大田原飛騨守様、一万三千石の城下(注10)である。町の出口に追分があり、右は日光道、左は宇都宮へ行く道だ。また、ここから再び那須野が原で、九里四方ほどあるという。
沢村(注11)へ二里で、この間は野山ばかりだ。
八重田(注12)へ一里半。この間に高田村があって、この間の山坂はこの上もない難所だった。その先が鞍掛村(注13)で、また山道だった。
玉生(たまにゅう)(注14)までは二里十二丁。宿は宇塚弥右衛門の木賃宿で、三十八文だった。ここからまた山道で、芦場(よしば)村(注15)があるそうだ。
三月二十三日。船生(ふにゅう)(注16)まで二里。ここには絹川(注17)が流れていて、渡し船の船賃は一人につき四十文ずつ。船賃の高い所だ。
向こう岸の大渡(注18)までは三十丁。この間に小さな村があった。
今市までは二里で、ここから日光町(注19)に入る。この場所から街道の杉並木(注20)がある。
◇日光は「 けっこう」と歩き回る
今市から日光町までは二里で、二十三日に到着して見物した。ただし、町入口の両側に番所があってここで(我々の)国の名を尋ねられ、日光の宿坊(注21)の名もきかれた。
秋田の者の宿坊は中山通りという場所にある實教院で、日光の山に入る際の役銭(入山税)と合わせて一晩二百五十文ずつだった。
東照宮大権現(注22)は、第四十八代称徳天皇(注23)の御世の神護景雲元年(767年)、勝道(しょうどう)上人(注24)が開基された。その後八百余年を経て、元和年間(1615〜1624)に慈眼(じげん)大師(注25)が再興なされた。
東照宮大権現の本社にお参りした。この社の入口に朱塗りの橋があり、いつも参拝人に渡らせている。
石の鳥居を奉納したのは黒田筑前守(注26)で、高さは三丈、柱回りは一丈三尺ほどもある。
五重塔を奉納した若狭の国の堺讃岐守(注27)、御手水鉢は肥前の国の鍋島丹後守(注28)の奉納で、蓮灯篭は朝鮮国からの寄進だという。ただし灯篭の金属は赤銅(注29)に間違いない。
回り灯篭は、琉球(注30)からの寄進、吊り灯篭はオランダからという。
唐金(からかね)(注31)の鳥居には葵のご紋がついている。
御額は天皇の御勅筆で、金色の文字である。
仁王門があり、御宝蔵は三つ、神楽殿、薬師堂がある。
陽明門(注32)は、日暮らしの門ともいう。結構を尽くし、光りわたっている。その天井には古法眼が墨で描いた竜の絵がある。
唐破風(からはふ)造りの門(注33)を通ると、東証大権現の御殿だ。この御堂回りは建築自体の見事さも及ばないほど光り渡っている。これは金を使った彫刻があるからだ。
そのほか、諸国大名衆が寄進した金灯篭、石灯籠は数知れない。
頭林塔は藤九郎盛長の墓(注34)である。
頼朝公を祀るのは三仏堂(注35)。
宮様の御殿回りのこしらえはきれいだった。
そのほかの諸堂はどれもが筆の及ばぬ見事なものばかりだった。
三月二十四日に拝見いたしたところは……日光のうちで、ここから間もなくの中禅寺(注36)へ向かった。
通りがかりに大日堂千体仏(注37)がある。ここは東照宮の内で、湧き出す水があり、とてもきれいだった。
中禅寺までは登りの山坂で、難所である。
奥の院は男体山(なんたいさん)(注38)で、そのほか三重塔があり、五知如来が祀られている。立木の観音堂があって、ここは十八番札所である。
中禅寺の向こうには大きな湖(注39)があって、きれいだった。
奥の院は、七月七日が決められた参詣日とのことだった。
日光から中禅寺までは三里あり、行き帰りで六里にもなる。
三月二十四日。片道二里の今市へ向かう。ただし日光からの戻りの宿は善右衛門の木賃宿で、一泊四十文だったが、よろしくない宿だった。
◇奥州街道を横切り……常陸へ
三月二十五日。大沢(注40)まで二里。その先すぐに領境があり、西は日光の御神領、東は宇都宮藩領(注41)である。
そこから下徳治郎(しもとくじら)(注42)まで二里半で、途中に小さな村が二つあった
宇都宮まで二里半。ここは松平主殿守(とのものかみ)様七万石(注43)の御城下である。町並みもよろしく見えた。
二十六日。桑島(注44)まで二里。さらに真岡(注45)まで二里。この間に鬼怒川を下る渡し船があり、賃二十五文だった。
注1 遊行柳=西行が平安時代末期に「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」(新古今集)という歌を詠んだ。この歌に触発されて室町時代、時宗の遊行上人がこの地を訪れた際、柳の精が老人に姿を変えて現れたが、上人の念仏のおかげで成仏できたという伝説を踏まえた謡曲「遊行柳」が創作された。芭蕉も『奥の細道』で、西行が「清水流るる」と詠じた柳の木は芦野の里にあって、田の畔に残っていると書き記し、折からの田植えを見て「田一枚植えて立ち去る柳かな」との句を得た。俳人である五郎兵衛にも興味津々の場所だった。当時のそのままかどうかは不明だが、那須町芦野に「遊行柳」の木が今もある。
注2 温泉の大明神=那須町湯本の温泉(ゆぜ)神社のこと。延喜式にも記された由緒ある神社。西行の歌にある「野辺の清水」はこの神社の奥から流れて来ると、五郎兵衛は伝え聞いたのである。
注3 片葉の芦=地形や水流などの自然のいたずらで、茎の片側にだけ葉がつく芦は各地に見られ、その奇妙さを説明するため、さまざまな伝説がある。五郎兵衛は「片葉の芦があるそうだ」と記したが、芦野にどんな伝説があるのかには触れていない。実際に片葉の芦があるのかも不明。
注4 芦野=栃木県那須町芦野。下野最北の奥州街道の宿場。五郎兵衛が「芦野主膳様五千石の城下」と書いているように、江戸時代は交代寄合旗本・芦野氏(3千石)の知行地だった。戦国時代は小さな城があったが、徳川家の旗本になってからは陣屋を置いていただけなので「御城下」というのは厳密には間違い。『奥の細道』には、芭蕉の当時の芦野氏が桃酔(とうすい)と名乗る俳人で、「遊行柳を見せたいものだ」と、しばしば芭蕉に語っていたことが記されている。
注5 越堀(こえぼり)=那須塩原市越堀。宇都宮から北へ8つ目の奥州街道宿場。
注6 殺生石=栃木県史跡。那須温泉湯本の温泉大明神の裏山にあり、大きな石の間から亜硫酸ガス、硫化水素などの有毒ガスを噴出している。その昔、宮中に仕えた美女「玉藻の前」が、実は「九尾の狐」が人間に化けたものだとわかり、内裏から追われた妖狐は下野の那須野まで逃げ、殺生石に化したという。狐はその後も人々を毒気で殺傷したが、通りかかった高僧の玄翁(げんのう)が仏事で石の霊を成仏させた。この伝説をもとに謡曲「殺生石」や人形浄瑠璃が創作された。
芭蕉も『奥の細道』の旅でこの地を訪れ、石のご毒気は「いまだほろびず、蜂、蝶の類が、地面の砂が見えぬほど重なり死んでいる」と描写した。
注7 鍋掛(なべかけ)=那須塩原市鍋掛。宇都宮から北へ7つ目の奥州街道の宿場。
注8 那須野が原=那珂(なか)川と箒(ほうき)川にはさまれた、約4万ヘクタールもの扇状地。山に降った雨はすべて地中に浸透してしまう地質で、灌漑用水による「那須野が原開拓」が始まったのは明治になってから。五郎兵衛が旅した頃は、見渡す限りの荒れ野だった。
注9 練貫(ねりぬき)村に御種人参=練貫村は現在の大田原市練貫。御種人参は、薬草である朝鮮人参の異名。3代将軍徳川家光(一説には8代吉宗)が朝鮮から種子を取り寄せ、試験的に栽培させたという。
注10 大田原飛騨守様、一万三千石の城下=栃木県大田原市。宇都宮から北へ6つ目の奥州街道の宿場で、日光への分岐点でもある。ただし宇都宮から分岐する「日光街道」ではなく、奥羽から南下して来た日光参詣者が利用する道筋で、明治以降は「日光北街道」と呼ばれたが、五郎兵衛の頃は単に「日光道」と呼ばれていた。
五郎兵衛が「飛騨守様」と言っているのは、大田原藩9代藩主、大田原庸清(つねきよ)のこと。
注11 沢村=矢板市沢。大田原から南西へ向かい、箒川を越えた所が沢地区。寛永13年(1636)、日光道の整備により宿場が形成された。
注12 八重田=五郎兵衛は「やえた」と聞いたのかもしれないが、正しくは「やいた」で、現在の矢板市中心部。
注13 鞍掛村=矢板市鞍掛。矢板市で国道4号から分岐する国道461号が「日光北街道」に重なり、その沿線に鞍掛がある。峠道で、八幡太郎源義家が後三年の役で奥州へ下る際、峠の松の木に馬の鞍をかけて休息したのが地名の由来とされている。鞍掛峠は日光北街道では最大の難所で、五郎兵衛の旅から60年以上も後、新道が造られた。今はほとんど人の通らない道筋に、その記念碑(嘉永4年=1851)が現存している。
注14 玉生(たまにゅう)=塩谷郡塩谷町玉生。現在の町役場がある辺り。
注15 芦場(よしば)村=玉生村から西へ向かった枝村で、現在の塩谷町芦場新田。
注16 船生(ふにゅう)=塩谷町船生。日光北街道の宿場。
注17 絹川=日光市を水源として茨城県守谷市で利根川に合流する、延長176キロの鬼怒川(きぬがわ)のこと。「絹川」の表記は五郎兵衛の当て字ではなく、江戸時代は「絹川」または「衣川」と書いていた。「鬼怒川」と書くようになったのは明治初期から。
注18 大渡=日光北街道の鬼怒川の渡し場。塩谷町から日光市へ渡った所。
注19 日光町=日光市。街道の入口となる今市は、かつては「今市市」だったが、2006年に合併して日光市今市となった。
注20 街道の杉並木=東照宮に寄進するため、家康の家臣、松平正綱が寛永2年(1625)から20年余をかけて約20万本の杉の苗を植えたという。現在も全長37キロメートルにわたって街道の両側に1万2千本の杉が立ち並び、世界一長い並木道としてギネスブックにも記載されている。わが国の特別史跡と、特別天然記念物の二重指定を受けている。
注21 日光の宿坊=宿坊は、神社仏閣の参拝者が休憩・宿泊する施設。大きな寺院では、門前の塔頭(たっちゅう)がその役割を果たすことが多い。宿坊は受け入れ地域を決めているのが通常で、大名から一般庶民までこれに従った。日光では實教院が秋田からの参拝人を引き受けていた。五郎兵衛の一行も、もちろん事前に予約していたのだろう。
『日光市史・中巻』(近世)では、「秋田佐竹家と実教院」という項目を設けて、その実例を紹介している。
宝永6年(1709)、「大名が代替わりを幕府から認められたときは、日光東照宮に太刀・馬代を奉納する(神前に神馬を献上する代わりにその代金を納める)ようにという幕府の御触(おふれ)が伝達されていた」ことを前提として、宝暦8年(1758)に11歳で亡父義明(よしはる)の家督を相続した秋田(久保田)藩8代藩主、佐竹義敦(よしあつ)は幼少、病弱のため将軍家治(いえはる)にお目見えしたのは5年後で、その際、佐竹家では御刀番の小野崎斎宮を日光山に代参の使者として派遣し、太刀・馬代を献上した。
余談だが、佐竹義敦は「曙山」(しょざん)と名乗る、秋田蘭画の代表的画家でもあった。
注22 東照宮大権現=『日光市史・中巻』(近世)によると、徳川家康は遺言で「一周忌が過ぎたら、下野の日光山に小堂を建てて東照宮を勧請し、これによって関八州の鎮守となるべきこと」と指示したという。
元和2年(1616)4月17日に家康が数え年75歳で死去すると、家康を神として祀る場合の神位をどうするかという論争が起き、天海僧正が「権現」と決定、2代将軍秀忠もこれを支持した。天海は6月、朝廷に奏請してこの神号に勅許を得るとともに、自身も大僧正に任じられた。
「東照権現」は、東に照り輝く権現という意味で、仏教思想では薬師如来にあたるとされている。
注23 第四十八代称徳天皇=在位764〜770年。実は聖武天皇の第1皇女、阿倍内親王が第46代孝謙天皇となり、47代淳仁天皇の即位に伴って上皇となっていたが、藤原仲麻呂(恵美押勝=えみのおしかつ)の乱に連座して淳仁天皇が廃位されたことにより、上皇が復位して称徳天皇となった。弓削道鏡(ゆげのどうきょう)と密着して政治を混乱させたことで知られる女帝でもある。
注24 勝道上人(しょうどうしょうにん)=奈良末期から平安初期の僧侶で山岳修行者。下野国(栃木県芳賀郡)に生まれ、下野薬師寺(現下野市)の僧に師事した。山岳信仰の対象である「日光山」の開山者として知られる。
注25 慈眼(じげん)大師=江戸初期の天台宗の僧、天海僧正の諡号(しごう)が慈眼大師。天海は徳川家康に深く信頼され、側近として仕えた。慶長18年(1613)には、家康から「日光山貫主」を拝命した。
注26 黒田筑前守=福岡藩52万3千石の大大名、黒田筑前守長政。彼が献納した石鳥居は現存している。
注27 若狭の国の堺讃岐守=若狭は現在の福井県西部。「堺」は五郎兵衛の当て字で、正しくは「酒井」。讃岐守は若狭小浜藩(12万3500石)初代藩主、酒井忠勝。家康の頃は3千石の旗本に過ぎなかったが、秀忠が「家光付き」(養育係)に登用したことから大名に列し、さらに幕府老中、そして土井利勝とともに最初の大老に任じられた。
注28 肥前の国の鍋島丹後守=現在の佐賀県と長崎県の一部にまたがるのが肥前の国。江戸時代を通じて佐賀藩(35万7千石)を鍋島氏が統治した。しかし、五郎兵衛が書いている「鍋島丹後守」は2代藩主の鍋島光茂のことで、藩主となったのは明暦3年(1657)だから、徳川家康没後1周年での日光東照宮の整備とは年代が合わない。五郎兵衛はかなり詳しく東照宮への寄進物について書き残しているが、水盤を寄進したのは佐賀藩初代藩主の鍋島信濃守勝茂に間違いない。鍋島勝茂は、関ヶ原の戦いの当初は西軍で、寝返って東軍になった。その経緯を家康に許された上に大名に取り立てられた恩義が勝茂にあったのだろう。
注29 赤銅(しゃくどう)=銅に金を2〜8%、銀1%を加えた日本独特の合金。朝鮮国からの寄進物というが、日本で作られた物だと、五郎兵衛は言いたいのだ。
注30 琉球=現在の沖縄県。江戸時代は、中国に朝貢貿易する独立国という位置づけだった。
注31 唐金(からかね)=銅に鈴を加えた青銅(ブロンズ)のこと。我が国へは中国から製法が伝わったので唐金という。
注32 陽明門=日光東照宮の正門。間口7メートル、奥行き4メートル、高さ11メートル。竜や鳳凰、中国古代の故事にちなむ人物など508点もの彫刻が施された豪華絢爛な門は、一日中見ていても飽きないことから「日暮門」(ひぐらしのもん)とも呼ばれている。国宝。
2013〜2017年の4年間「平成の大修理」が行われ、創建当初のきらびやかな姿が復活した。この大修理には24万枚の金箔が使われた。
注33 唐破風(からはふ)造りの門=五郎兵衛の原文は、単に「唐門」(からもん)。これに旧増田町文化財協会が「唐破風造りの屋根の門」と注釈している。「破風」は屋根の妻側のことで、その中央が丸みを帯びているのが「唐破風」。「唐」とは言っても中国建築のデザインを取り入れたわけではなく、日本独自の意匠だ。
注34 頭林塔は藤九郎盛長の墓=藤九郎盛長は、源頼朝が流人だった時代からの側近、安達盛長。鎌倉幕府を動かした「十三人の合議」の1人。
問題は五郎兵衛の記した「頭林塔」だ。この言葉は、日本語の辞書に見当たらない。旧増田町文化財協会の注釈では「頂林塔か」と書かれている。しかし頂林塔は通常、五輪塔のこと。日光東照宮では、天海僧正の遺灰を埋葬した墓石しか五輪塔はない。五郎兵衛の記述は、天台宗特有の仏塔である「相輪塔」の誤記と思われる。
「相輪」は、五重塔や三重塔の最上階の屋根の上に取り付けられる細長い金具で、日光東照宮ではこれ自体を供養塔として建てた3基が現存している。
注35 三仏堂=平安時代(一説には奈良時代)の創建と言われる天台宗の寺院、日光山輪王寺の本堂(輪王寺は日光山に点在するお寺やお堂、15の支院の総称)で、国の重要文化財。3代将軍徳川家光が立て替えた現在の建物は、東日本最大の建築物で、薬師如来、阿弥陀如来、馬頭観音の3体の仏像が本尊として祀られている。輪王寺に含まれる家光の霊廟「輪王寺大猷院(だいゆういん)金閣殿」は国宝。
注36 中禅寺=輪王寺の別院。日光開山の祖、勝道上人が延暦3年(784)に建立した寺院。十一面千手観音(国の重文)が本尊。
注37 大日堂千体仏=大日堂は、輪王寺を構成するお堂のひとつだったが、明治35年の大洪水で流失してしまった。「千体仏」は、同形の多数の仏像を堂内に安置したり、同じ面に描いたりしたものを言う。しかし、五郎兵衛は「大日堂千体仏」としか記録していないので、どんなお堂で、どんな仏様たちだったか、今となっては知ることができない。
注38 男体山=なんたいさん。標高2486メートルの火山。古くから山岳信仰の対象で、奈良時代末の天応2年(782)、 勝道上人(注24参照)が初登頂した。山頂には日光二荒山(ふたらさん)神社の奥宮がある。山頂から見下ろす中禅寺湖は絶景で、深田久弥も男体山を「日本百名山」のひとつに数えている。
注39 大きな湖=中禅寺湖。水面の標高は1269メートル。4億年前、噴火した男体山の溶岩で川がせき止められて誕生した。落差97メートルの華厳の滝も、この時できた。
注40 大沢=日光市大沢町(旧今市市大沢町)。日光街道の宿場。日光東照宮ができて間もなく、徳川将軍家が日光へ参詣する際に宿泊する御殿が建てられたが、享保年間(1716〜1736)までに廃止された歴史がある。五郎兵衛一行が通過した頃は、普通の宿場町だった。
注41 宇都宮藩領=現在の栃木県庁がある宇都宮市は、北関東の要衝であり、日光東照宮への将軍家参詣の際の宿泊地でもあることから、譜代大名が配置された。しかし、幕府開設直後の奥平家10万石に始まり、めまぐるしく統治者が変遷した。世に知られた「宇都宮吊り天井事件」で改易された本多正純(ほんだ・まさずみ)の15万石が最大の領地だった(本多正純は改易後、秋田の佐竹氏預かりとなった)。
五郎兵衛一行が日光から宇都宮に入った頃の宇都宮藩は、安永3年(1774)に肥前島原藩から移封された戸田忠寛(8万石)が藩主で、戸田家はそのまま明治維新まで続いた。
注42 下徳治郎(しもとくじら)=日光から見て宇都宮のひとつ手前の宿場。五郎兵衛は「徳治郎」と表記しているが、正しくは「徳次郎」。上徳次郎、中徳次郎、下徳次郎の3宿を合わせて「徳次郎宿」と呼ばれた。天保14年(1843)の記録では、宇都宮宿の旅籠の数が42軒なのに対し、徳次郎宿の旅籠は72軒あった。宿場町としては大名の城下である宇都宮より大きかった。江戸時代に3回、日光を参拝した朝鮮通信使は決まって、江戸出発から4日目の昼食を徳次郎宿で摂ったという。
徳次郎と書いて「とくじら」と読む地名の由来には諸説ある。最も有力なのは、奈良時代に日光を支配していた久次良(くじら)氏が、本来は領地の外だったこの辺りまで勢力を広げたので「外久次良」(とくじら)との地名ができたという説だろう。久次良氏はその後、平安時代末期に勃興した宇都宮氏の支配下となった。
なお、宇都宮市は昭和29年の隣接地区合併以後、徳次郎町を「とくじろうまち」という読み方に定めていたが、令和3年(2021)3月1日から「とくじらまち」に変更した。歴史的な背景と、地元の人たちの愛着を尊重した判断だという。つまり、五郎兵衛の頃の地名が復活したとも言える。
注43 松平主殿守(とのものかみ)様七万石=宇都宮藩主で「主殿頭」(とのものかみ)に任官したのは、五郎兵衛が訪れる前に島原藩へ移封した松平忠祇(ただまさ)しかいない。五郎兵衛一行が宇都宮を通過した時の藩主は戸田氏(注41参照)。また「とのものかみ」の表記は「主殿頭」が正しい。
注44 桑島=宇都宮市桑島町。宇都宮中心部から南東へ向かって、鬼怒川の手前。ここから渡し船で鬼怒川を越えたのである。
注45 真岡=栃木県真岡(もおか)市。旧芳賀郡の中心地で、現在の茨城県との境界に位置する。
≪解説≫
「日光を見ずして結構と言うなかれ」……「にっこう」と「けっこう」という語呂合わせのことわざが広く知られたのは、江戸時代も半ばを過ぎてからとされている。安倍五郎兵衛一行が伊勢参りに出かけたのは天明3年(1783)だから、1603年に江戸幕府ができてから180年後のこと。まさしく「江戸時代後半」だ。最終目的地は伊勢神宮であっても、途中の日光東照宮は「必見の場所」だったに違いない。
五郎兵衛の「道中記」で下野(栃木県)は3月21日から26日まで、6日間の旅程が記されているが、そのうち2日間を日光で過ごしている。宮城県、福島県と奥州街道をひたすら南下して来たことに比べると、ずいぶんとゆっくり時を過ごしたものだ。それだけ「見どころ」が多く、しかも「期待通り」だったことが、五郎兵衛の筆致からうかがえる。
日光山(男体山から北北東の女峰山=標高2483メートル=まで連なる山々の総称)は、関東地方屈指の霊山・霊場で、しかも、家康が畏敬していた源頼朝が厚く信仰していた場所だったという。
元和2年(1616)4月17日、家康は駿府(現在の静岡市)で数え年75歳の生涯を閉じたが、死期を悟っての遺言で「棺は久能山に」(静岡市駿河区)、「一周忌が過ぎたら、下野の日光山に小堂を建てて、関八州の鎮守となるべきこと」と指示したことが『徳川実記』に記されている(注22参照)。
2代将軍秀忠は遺言に従い、まさしく一周忌の元和3年4月17日、家康を祀る日光の小堂に参詣して、家康の霊の鎮座を宣言した。しかしこの頃の日光東照宮は質素で、正式名称も「東照社」だった。これを、現代人も目を見張る豪華絢爛な「東照宮」に建て替えたのは3代将軍、徳川家光だった。
祖父の家康を敬慕していた家光は、寛永11年(1634)11月から同13年5月にかけての1年7か月で、諸建築を完成させた。その費用57万4百両は全額、幕府が負担した。「東照社」が朝廷の宣下により「東照宮」と改められたのは、正保2年(1645)11月である。
この全面建て替えの後、幕府は「東照大権現」の神威を武士だけでなく庶民にも高めなければならないとして、一定の規制はあるものの、誰もが拝殿の鰐口(わにぐち)下まで参詣でき、賽銭や初穂料の奉納などもできるよう便宜を図った。庶民の旅が盛んになった江戸後期からは、日光は大人気となり、天保12年(1841)9月25日から1年間の統計で、参詣者は3万5042人に達した(『日光市史・中巻』近世)。計算するとこれは、1日平均で約100人になる。徒歩旅行しかなかった当時、これは驚くべき数だ。
五郎兵衛たちも「一生に一度の長旅なのだから、見るべき場所は必ず行こう」と相談してから旅立ったに違いない。それは日光参詣の後、宇都宮から奥州街道をそのまま南下せず、南東へ向かったことでも察しられる。次の「見るべき場所」はどこだったのか?
それは、次回の「茨城県内」で。
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