◇香取神宮から成田山新勝寺へ
(四月一日)息栖大明神から富田(注1)まで一里。そこから香取(注2)まで二里。香取大明神(注3)は大きな社だ。
ここから滑川(注4)へは舟で行った。四里の距離だ。ここには観音堂(注5)があって、坂東二十八番札所である。
四月二日。成田(注6)まで二里半。不動明王のお社(注7)はきれいで、とても見事だった。
このお寺の人王(創建した天皇)は六十二代朱雀天皇(注8)で、その勅願所であるとの額は、弘法大師の作である。奥の院(注9)の岩屋には大日如来があるが、岩穴である。
◇佐倉、船橋、市川……そして江戸川を越える
佐倉(注10)まで三里。ここは堀田相模守様十二万石(注11)の城下である。
薄井(注12)まで二里。佐倉城下からここまでの間は野原が続いている。
大和田(注13)まで二里。その間に小さな村があって宿をとった。八十一文ずつだった。
四月三日。船橋(注14)まで三里。ここから二里半で行徳(注15)へ行く道があって、行徳から江戸へ川舟に乗れば三里である。その間に家もある。
(行徳への分かれ道から)八幡(注16)まで一里半。
市川(注17)まで一里。市川宿の出口には川(注18)があって、舟渡し賃は二十八文ずつ。川を越えると関所があり、笠を脱いで通らなければならなかった。
注1 富田=香取市(旧香取郡小見川町)富田。息栖神社から常陸利根川を渡り、さらに利根川を越えた辺り。
注2 香取=香取市香取。以前は佐原市だったが、2006年(平成18年)3月、香取郡小見川町、山田町、栗源町と合併して香取市となった。
市の中心は、水郷の町であり、利根川水運で栄えた佐原地区だ。日本で初めて正確な日本地図を作った伊能忠敬の故郷として知られるが、五郎兵衛が香取を通過した頃は、伊能忠敬はまだ佐原の老舗の商人であり、佐原村の名主だった。伊能忠敬が隠居し、天文学を学び、ついには全国の海岸測量に出発するのは、五郎兵衛が香取神宮を訪ねてから17年も後のことである。
注3 香取大明神=下総一宮。祭神の経津主神(フツヌシノカミ)は、鹿島神宮の祭神、武壅槌神(タケミカヅチノカミ)とともに、天照大神(アマテラスオオミカミ)の使者として出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)に国譲りを迫ったと「古事記」には記されている。
注4 滑川=成田市滑川(なめがわ)。利根川の右岸に位置し、現在はJR成田線・滑川駅がある。五郎兵衛たちが滑川に着いたのは4月1日で、道中記では、翌4月2日に成田となっている。しかし、珍しく宿を書き留めていない。滑川で一泊したのだろう。
注5 観音堂=天台宗龍正院(りゅうしょういん)。本尊は十一面観音で、坂東三十三観音の28番札所。通称は滑川観音。ちなみに「坂東三十三観音」は、現在の神奈川、埼玉、東京、群馬、栃木、茨城、千葉の1都6県にまたがる33の観音霊場。
注6 成田=成田市。成田山新勝寺、宗吾霊堂(義民佐倉惣五郎を祀る)の門前町として、江戸中期以降に発展した。
注7 不動明王のお社=不動明王を本尊とする成田山新勝寺。天慶3年(940)、乱を起こした平将門を調伏するための祈願所として創建されたと伝えられる。「新勝寺」の寺号は、朱雀天皇が下賜した。
注8 六十二代朱雀天皇=「すざく」天皇(在位930〜946年)。五郎兵衛は「62代」と書いているが、正しくは「61代」の天皇。在位中に東国では平将門の乱(940年)が起こり、これに呼応して西国では藤原純友の乱が起こった。
注9 奥の院=光明堂の裏手にある洞窟。不動明王は仮の姿で、その本来の仏さまである大日如来像が安置されている。現在の光明堂は、新勝寺本堂の裏手にある釈迦堂の、さらに裏手にあるが、五郎兵衛一行が訪れた頃は光明堂(元禄14年=1701=建立)が本堂だった。その後、安政5年(1858)に新本堂として釈迦堂が建立された。初詣でにぎわう様子が毎年報道される現在の大本堂は、昭和43年(1968)に鉄筋コンクリートで建設された。
注10 佐倉=千葉県佐倉市。江戸と成田を結ぶ成田街道の道筋だが城下町で、宿場には数えられていない。江戸の東方を守る重要な場所として、佐倉藩は代々、譜代大名が配置された。老中から初めての大老となった土井利勝が最初の佐倉藩主で、以後、堀田氏、大久保氏、戸田氏、稲葉氏と藩主が次々に老中となり、諸藩の中でも最も多くの老中を輩出した藩である。
現在の私鉄京成線・佐倉駅前から正面の坂道を上ると、左右に伸びる商店街に突き当たる。これを右方向(西側)に進んで、丘陵の先端(西端)に本丸があった。今はこの本丸跡に、国立歴史民俗博物館がある。その先は平野を見下ろし、空気の澄んだ冬にはその向こうに、富士山をはっきりと見ることができる。
注11 堀田相模守様十二万石=五郎兵衛が通過した時の佐倉藩主は、堀田相模守(さがみのかみ)正順(まさなり)。
注12 薄井=成田街道の宿場。「薄井」は誤記で、正しくは現在の佐倉市臼井(うすい)。京成電鉄京成本線臼井駅がある。蛇足だが、ミスター巨人・長嶋茂雄さんの出身地だ。
注13 大和田=成田街道の宿場。八千代市大和田。京成本線の京成大和田駅がある。
注14 船橋=船橋市。現在の人口は65万人で、千葉県内では県庁所在地の千葉市に次ぐ大都市。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征の際、市内を流れる海老川に船で橋を架けたという伝説が地名の由来とされる。式内社である意富比(おおひ)神社、通称・船橋大神宮もあり、歴史ある土地だ。船橋大神宮の門前町としてのにぎわいに加え、江戸時代後期は成田山新勝寺参拝の中継地として発展した。
注15 行徳=市川市行徳(ぎょうとく)。江戸時代は、江戸近郊で唯一の塩田があった。瀬戸内海沿岸の塩田地域に比べればわずかの生産量だったが、軍事的な利用価値から徳川家康が保護した。塩田は農家の副業として発展し、利根川をさかのぼって北関東の内陸部まで運ばれた。このため、成田街道の別ルートとして、江戸への船便が旅人に利用された。
行徳の塩田は昭和まで続いたが、戦後の地域開発で埋め立てが進み、姿を消した。
注16 八幡=市川市八幡。「はちまん」ではなく「やわた」と読む。成田街道の宿場だが、隣の船橋宿に近く、参勤交代の宿泊地とはされていなかったため、本陣も脇本陣も設置されなかった。旅人もほとんどが素通りしたという。現在はJR総武本線、地下鉄都営新宿線、私鉄京成本線の駅があり、東京へ通勤圏として住宅街が広がっている。
注17 市川=成田街道の宿場であり、江戸川の渡し口。市川市。
注18 市川宿の出口には川=江戸川のこと。現在の千葉県と東京都を隔てる川である。銚子から遡る利根川は、江戸川上流部と運河でつながっていて、銚子以北の太平洋岸から江戸への物資輸送の大動脈でもあった。
≪解説≫
常陸(茨城県)で筑波山に登り、鹿島神宮に参詣した安倍五郎兵衛の一行は、利根川のほぼ対岸に位置する香取神宮へ向かった。鹿島、香取の両神宮は大和朝廷にとって重要な位置づけの神社で、古来、天皇家に信奉されて来た。
その足で向かったのは、成田山新勝寺。ここも平将門の乱に際して開かれた天皇の祈願所だった。ここからは成田街道が江戸への往来がにぎやかな道筋だ。
日光東照宮に立ち寄った後の行程をたどると、五郎兵衛たちが「一生に一度の大旅行だから、見逃せない場所はどこか」と、事前に入念なプランを練っていたことがわかる。
しかし、古来有名な場所を選択したため、現在の埼玉県には一歩も入らないという結果となった。
江戸川を渡れば、昔の国名では「下総」だが、現在の地名では東京都だ。次回は、いよいよ「花のお江戸」に入る。
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