◇両国橋までは下総国
四月三日。(江戸川を越えると)その次に、家のある村が数カ所あって、一里半ほど行くと川(注1)があり、渡し舟の運賃は二十四文だった。
江戸までは三里。この日、江戸に着いた。江戸の入口は本庄町、片原町(注2)で、どちらも材木の町だった。
両国橋(注3)までは一里あって、ここが下総と武蔵の境界である。ここは幾世餅(注4)が名物だ。ここから武州(武蔵国)領だ。宿は馬口労町(注5)二丁目の玉や清兵衛にした。
四月四日。(江戸の)見物に出た。馬口労町から三味線堀(注6)に行くと佐竹様のお屋敷(注7)があり、そのほかお大名衆のお屋敷を見物した。
神田の筋違(すじかい)橋(注8)には目付の門があった。
神田大明神(注9)の本堂は八間四方もあり、平将門親王を祀っている。お堂の造りはことのほか美を尽くしている。
湯島天満宮(注10)へ行った。下谷天満宮(注11)の開帳もあった。
次に上野の山王大権現(注12)を見に行った。ここには東叡山のご本堂、五重塔、六角堂がある。また清水観音堂(注13)からは見晴らしがよく、弁財天のお堂が池の中にあるのが見えた。きれいな所で、よい景色だった。この池は不忍池(注14)という。
同じ所にある忍岡大明神(注15)は小さな社だった。本社の周りに末社が五カ所ある。
下谷大明神(注16)は開帳されている。小さな社だ。
浅草寺観音堂(注17)は、大社である。今年の三月十八日から四月二十日まで開帳されていて、参詣人で大賑わいである。
同所に三王権現社(注18)がある。
天問屋形(注19)はさらや丁である。毎日、問者が登るそうだ。
◇深川から亀戸へ
四月五日の見物。
回向院(注20)へ行った。無縁仏をおさめる寺である。明暦年中の江戸大火(21)の時、焼死人十万余人をこの寺に葬ったのがこの寺を建立した所以だという。境内に天満宮(注22)があり、開帳の際は、但霊作といわれる宝物がある。
三笠町には長応山春慶寺(注23)、普賢菩薩堂で知られる妙見山法性寺(注24)がある。妙見菩薩堂の前には影向(ようごう)の松(注25)があって、名木である。
亀井戸の天満宮(注26)は四間四方の広さだ。亀井戸の社は社殿が三社あって、拝殿の前には池があり、反り橋がかかっている。池には鮒、土亀が多い。亀井戸のお宮の内の水は名水で、池の上に藤棚(注27)あり、藤の花の盛りにはよい景色だ。
五百羅漢堂(注28)は十間掛ける十三間の社造りで、額は隠元禅師の筆による。これは大いなることである。
光明幢(注29) 百観音堂(注30)は九間四方で、高さは五丈六尺。サザエ造り(注31)で段々登り、下りの内に仏さまが立っている。山門は七間四方の大きなものだ。
須崎の弁財天(注32)。ここからは沖の海原を見渡すことができた。
深川八幡宮(注33)は古い社で、末社が多い。
◇中村勘三郎一座の芝居見物
六日は芝居見物で堺丁(注34)へ行った。中村勘三郎(注35)の一座で、団十郎(注36)、半四郎(注37)、菊之丞(注38)も出ているのを見物した。六日の見物には札銭が百五十文、弁当に八十文、火縄代に二十文(注39)かかった。
四月七日。
根津権現(注40)はよい社だ。
笠森明神(注41)のお供えの団子には、土団子もある。
「日昏」(ひぐらし)の七面大明神社(注42)へ行った。ここには「ひぐらし」という景色の庭が二カ所あって、きれいな所だった。
浅香山(注43)は桜の木が所々にある。正雪(注44)が陣を設けた所だという。
王子の正一位稲荷明神(注45)は、東国三十三か国を司る神社と聞いた。境内の方々に石灯籠があった。
同じ王子に権現社(注46)があって、末社もあった。
◇江戸城の周辺を歩く
四月八日。
常盤橋御門(注47)から内側は大名小路(注48)である。ただし地名は御丸之内(注49)という。
(そこから進むと)大手先(注50)、大下馬(注51)、桔梗御門(注52)、坂ノ下御門(注53)となり、ここ(坂下門)からは紅葉山(注54)が見える。瀧ノ口(注55)という船着き場がある。
西ノ丸大手先口(注56)、和田倉門(注57)、外桜田御門(注58)、虎ノ口御門(注59)と進んだ。
愛宕山社(注60)には石段がある。末社もあり、ここからは江戸の町の大方が見える。
芝増上寺(注61)へ行った。例年であれば山門は四月八日、十六羅漢を拝観するために登るという、はなはだ高い山門である。
本堂は間口十八間、奥行き十四間もある。ここには公方様の御魂屋(注62)であり、諸堂、本堂の造作は見事なものだ。
芝神明社(注63)に行った。神明社の前には売り物の店や見せ物小屋があり、賑やかな所だ。
◇江戸を出る日に赤穂浪士の泉岳寺へ
十一日に江戸を出立(注64)。
泉岳寺(注65)に寄った。浅野様の菩提所(注66)である。義士四十七人の石塔(注67)があり、それが古びて、また哀れだった。
大仏如来寺(注68)の本尊は五智如来である。ここから目黒の不動尊(注69)へお参りすることができるそうだが、(我らは)品川(注70)へ抜けるので、目黒へはお参りしなかった。
品川へは二里。ここまで江戸から町続きである。品川はよいところで、左手は入り江の海辺だ。
この先には小さな村があり、山田川の舟渡し(注71)がある。渡し賃は十文ずつで、川崎町(注72)に渡ることができる。
注1 一里半ほど行くと川=中川。文政元年(1818)に老中が決定した「江戸御府内」では、中川が東の端とされた。現在は江戸川と中川の間に、洪水対策で建設された新中川(旧称は中川放水路、1963年完成)が流れている。
注2 本庄町、片原町=どちらも現在は残っていない町名。五郎兵衛が「材木の町」と紹介していることから、隅田川東岸の深川木場にあった町名と推測できる。
注3 両国橋=五郎兵衛が「下総と武蔵の境界」と解説しているように、二つの国をまたいでいるので「両国橋」と名付けられた。隅田川から東は下総国。武蔵国は現在の東京都、埼玉県、一部は神奈川県の地域。ちなみに、2012年にできた電波塔、東京スカイツリー(墨田区押上1丁目)の高さが634mなのは、634(むさし)という言葉遊びに由来する。
明暦の大火(注21参照)の際、西風にあおられた火から逃れようとした多くの人々が隅田川を渡れずに焼死、あるいは溺死したことから、大火後、この橋が架けられた。
注4 幾世餅=いくよもち。元禄(1688〜1704)の頃、両国の小松屋喜兵衛が吉原の遊女・幾世を見受けして妻とし、その名をつけた餡(あん)餅が大評判となった。遊女・幾世を妻とする話は落語の演目(5代目志ん生)にもなっている。
注5 馬口労町=現在の東京都中央区日本橋馬喰町(1〜4丁目)。『江戸名所図会』によると、江戸城下では最も古い馬場があり、関ヶ原への出陣の際、ここで馬揃えが行われたと伝えられる。江戸時代に入り、訴訟や裁判のために上京した人を泊める公事(くじ)宿が集中したが、宿では一般の旅人も宿泊した。江戸時代から問屋街としても発展し、今でも一帯には衣料品の店が多い。
注6 三味線堀=現在の東京都台東区小島1丁目にあった掘割。秋田藩佐竹家上屋敷の東側に隣接していた。寛永7年(1630)、隅田川左岸の低湿地を改良するため、ここを流れていた鳥越川を掘り広げた。その形状が三味線に似ていたことから名がついた。
注7 佐竹様のお屋敷=秋田(久保田)藩・佐竹家上屋敷は下谷七軒町(台東区台東3、4丁目、現在の都営地下鉄大江戸線・新御徒町駅の南側)にあり、三味線堀のあった小島町に面して東表門があった。中屋敷は向柳原(台東区浅草橋4丁目)に、下屋敷は浅草(同浅草橋2丁目)にあった。
五郎兵衛たちが訪れた天明3年(1783)、秋田藩上屋敷に3階建ての高殿が建設された記録があり、太田南畝が「三階に三味線堀を三下がり二上がり見れどあきたらぬ景」との狂歌を残している。五郎兵衛の旅日記に高殿が触れられていないのは、4月の時点ではまだ高殿が完成していなかったのだろう。
注8 筋違(すじかい)橋=「江戸名所図会」に「須田町より下谷への出口にして、神田川に架(わた)す。御門ありて、この所にも御高札を建てらる」とある。明治初年に撤去。今の秋葉原電気街南端にある万世橋付近にあった。
注9 神田大明神、平将門親王を祀っている=神田神社は大己貴命(おおむなちのみこと)と少名彦命(すくなひこのみこと)を祭神とするが、平将門を祀った社であるとの信仰が古くからあり、林羅山もそれを認めていた。神田祭は江戸の祭の代表とされ、山車の豪華なことで有名。
平将門は、桓武天皇の曾孫高望王の孫。承平5年(935)「将門の乱」を起こす。関八州の支配を企て、新皇を自称。平貞盛、藤原秀郷らに攻められ、天慶3年(940)戦死。
注10 湯島天満宮=雄略天皇の勅命によって天之手力雄命(あめのたじからのみこと)が創祀され、のち菅原道真を合祀。文明10年(1478)太田道灌が再興したと伝えられる。湯島天神ともいう。
五郎兵衛が訪れた頃は、江戸でも屈指の盛り場になっていて、芝居小屋、見世物小屋、講釈場、矢場、それに男色の陰間茶屋もあった。また梅の名所で、明治になって泉鏡花が書いた小説『婦系図』(おんなけいず)の「お蔦と主税(ちから)の悲恋物語」が芝居となり、「湯島の白梅」の歌が戦前に大ヒットした。
注11 下谷天満宮=下谷天満宮は俗称で、『江戸名所図会』には五条天神宮の名で紹介されている。日本武尊の創建と伝えられ、室町時代には上野の山に鎮座していたことが明らかだ。しかし江戸時代に入り、東叡山寛永寺が創建されたことにより移転を繰り返した。五郎兵衛が訪ねた頃は、現在の「アメヤ横丁」入口付近にあった。その後も何度か移転し、現在は上野動物園から山を下って不忍池に面した道路沿いにある。
注12 上野の山王大権現=山王大権現社。清水堂の南にある。内陣、拝殿、階下にまで彫り物があった。
「ここには東叡山のご本堂、五重塔、六角堂がある」と五郎兵衛は書いているが、「東叡山」とは東の比叡山との意味で、(台東区)上野の寛永寺の山号。3代将軍家光が徳川家の菩提所として創建した。天海僧正の開基。五重塔、東照宮、観音堂などが残り、旧境内の大部分は現在、上野公園となっている。
注13 清水観音堂=京都の清水寺を模した、同じ舞台造りの観音堂で、不忍池を見下ろす斜面に位置する。寛永8年(1631)、天海僧正によって建立された。本尊の千手観音は、平安時代の名僧、恵心僧都の作。上野の山は戊辰戦争の時、彰義隊が陣を構えて激戦地となったが、清水観音堂は戦火をまぬかれ、江戸時代の姿をとどめている。
注14 不忍池=元々は海岸が入り込んだ湖。それが内陸湖になり、土砂が流入したり、埋め立てられたりして現在の大きさになった。上野の山に寛永寺を創建した際、天海僧正が池を琵琶湖になぞらえ、竹生島をまねた島を築いて弁財天を祀った。
注15 忍岡大明神=忍ケ丘稲荷神社のことだが、今は五条天神宮(注11下谷天満宮を参照)に隣接する花園稲荷神社境内にある祠(ほこら)。石窟の上にあることから俗に「穴稲荷」と言われる。
ちなみに「忍ケ丘」とは上野の山の古い呼び名で、江戸初期、低地の「下谷」に対して「上野」と呼ばれるようになった。
注16 下谷大明神=奈良時代に創建されたと伝えられる、東京都内で最も古い稲荷神社。当初は忍ケ丘(上野の山)にあったが、江戸初期、寛永寺創建により山の下に移され、さらに延宝8年(1680)、現在地(東京都台東区東上野3丁目、地下鉄銀座線・稲荷町駅から徒歩2分)近くに移転した。五郎兵衛が訪ねた頃は、下谷の鎮守として信仰を集めていて、御開帳の時などは参詣人でにぎわったという。
注17 浅草寺観音堂=推古天皇の時代の7世紀初め、宮戸川(現在の隅田川)で投網漁をしていた3人の漁師が観音像を引き揚げ、それを祀ったのが創始とされるのが金龍山浅草寺(きんりゅうざん・せんそうじ)。太田道灌が江戸城を築くよりはるか昔から、寒村にすぎなかった浅草は多くの人々が参詣に訪れていたことから、江戸という大都市の発祥の地と言っていい。
徳川家康が関ヶ原出陣の際、浅草寺で武運長久の祈願をしたことから、全国にその霊験が広まった。4代将軍家綱の頃には、浅草寺周辺は参詣人を相手にする盛り場となり、ことに明暦3年(1657)8月、それまで江戸城に近い京橋付近にあった遊郭(元吉原)が浅草寺裏手に移転されて、新吉原と言われるようになると、不夜城とも言える歓楽街となった。
元々は天台宗だったが、現在は聖観音宗の総本山。浅草観音ともいい、浅草寺の総本坊・伝法心院を伝法院といっている。
注18 三王権現社=隅田川から観音像を引き揚げた3人の漁師を祀る神社。現在も続く三社祭は江戸三大祭のひとつに数えられる。
注19 天問屋形=天問(てんもん)は五郎兵衛の誤記で、正しくは「天文」。幕府には、天体運行と暦を研究する機関として設置した「天文方」という役所があった。五郎兵衛が記録した「屋形」は、その建物のことだろう。五郎兵衛の旅の前年、天明2年(1782)にそれまで天文方のあった牛込袋町(現在の新宿区袋町)から浅草に天文方が移設され、同時に「天文台」という呼称になった。一般に「浅草天文台」と呼ばれ、正確な日本地図を作製した伊能忠敬が、ここで天文学と測量技術を学んだことで知られる。現在の東京都台東区浅草橋3丁目に跡地がある。五郎兵衛が記した地名の「さらや丁」は、その後どうなったか不明。
暦を作る役所だったので、何かを聞きに来る人も多かったのだろう。
注20 回向院=明暦の大火の犠牲者10万7047柱を、隅田川の対岸に集めて供養したのが国豊山無縁寺回向院の創始。以来、無縁仏を葬る寺となる。天明元年(1781)以降、境内で勧進相撲が行われたのが「江戸相撲」の発祥で、大名たちがお抱え力士を競わせて人気を博した。現在の両国国技館の由来でもある。
注21 明暦年中の江戸大火=明暦3年(1657)1月に起きた、いわゆる「振袖火事」。本郷丸山の本妙寺で供養のために焼いた振袖が強風にあおられて飛び火し、3日3晩燃え続け、江戸城の天守閣まで延焼した、江戸時代最大の火事。隅田川にさえぎられて逃げ切れなかった多くの江戸市民が犠牲になったことから、幕府は両国橋を架け、対岸の深川、本所地域の開発にも力を入れることになった。
注22 境内に天満宮=回向院は境内が広く、多くの堂宇があった。天満宮もそのひとつと推測できるが、関東大震災で被災し、その後再建されなかったと思われる。「但霊作といわれる宝物」についても不明。
注23 長応山春慶寺=日蓮宗の寺。現在の住所は東京都墨田区業平2丁目。
注24 妙見山法性寺=読み方は「ほっしょうじ」。東京都墨田区業平5丁目にある日蓮宗の寺。を現すことで、この寺は「柳島妙見」と呼ばれて、江戸市民の参拝が絶えなかった。
注25 妙見菩薩堂の前には影向の松=江戸名所図会に「堂前に影向(ようごう)松と名づくる霊樹あり。本尊初めてこの樹上に降臨ありしという」とある。「影向」とは、仏が一時この世に姿を現すこと。
注26 亀井戸の天満宮=正式な名は宰府(さいふ)天満宮。亀戸(かめいど)村にあったので亀戸天満宮と呼ばれて親しまれた。五郎兵衛は「亀井戸」と書いているが、現在の地名は亀戸。
注27 池の上に藤棚=江戸時代から藤の花の名所で、今も4月中に50株以上の藤が咲き誇り、毎年「藤まつり」が行われる。「野菊の墓」の作家、伊藤佐千夫には「亀井戸の藤も終りと雨の日をからかささして一人見に来し」の歌がある。
注28 五百羅漢堂=本所五ツ目(現在の江東区大島3丁目)にあった天恩山羅漢寺。もと京都の仏師だった黄檗僧松雲が九州耶馬渓の「青の洞門」の近くの羅漢寺を見て五百羅漢の彫像を発心、江戸で寄進を求めたのが起こり。木造完成は元禄8年(1695)。扁額を揮毫(きごう)した隠元は、江戸前期に来日した明の僧。日本黄檗宗の開祖。山城国宇治(京都府宇治市)に黄檗山万福寺を開いた。
五郎兵衛が訪ねた頃は参拝者の絶えなかった五百羅漢寺だったが、幕末、安静の大地震で被災し、明治になって荒廃した。その後、移転を重ね、現在は目黒不動尊(目黒区下目黒3丁目)近くに、「天恩山五百羅漢寺」として存続、羅漢像も300体ほどが現存している。
注29 光明幢=「こうみょうどう」。「光明」は仏教では「仏様が発する光」のことで、幢は「旗」や旗印の意味。しかし、五百羅漢堂で、それが何を示すのかはわからない。
注30 百観音堂=『江戸名所図会』に「三匝堂(さざいどう)、上のめぐりは西国、中のめぐりは坂東、下のめぐりは秩父、以上百番札所観音の霊跡を模擬(うつ)して(中略)右めぐり三匝(ぞう)にして、おぼえず三階の高楼に登ることを得はべり」と紹介されている。つまり、二層構造のらせん状の通路を歩むと知らず知らずのうちに最上階へ達して、別ルートで階下へ戻ることができ、通路のわきには百体の観音様が安置され、それを拝みながら一周すれば百か所の寺院を巡礼したのと同じご利益があるとされた。この構造から、この建物は俗に栄螺(さざい)堂と言われた。
五百羅漢寺の百観音堂からは周辺の眺めがよく、葛飾北斎、歌川広重も浮世絵に描いている。
注31 サザエ造り=らせん状に3階に登る構造の俗称。五郎兵衛が訪ねた本所の百観音堂は現存しないが、今でも全国に5棟(群馬県太田市、埼玉県本庄市、福島県会津若松市、青森県弘前市、茨城県取手市)の「サザエ堂」が残っている。いずれも江戸時代後期の建立で、白虎隊士の墓がある会津若松市・飯盛山のサザエ堂は国の重要文化財に指定されていて、常時見学できる。
注32 須崎の弁財天=正しくは「洲崎」。現在の洲崎神社(江東区木場6丁目)。5代将軍、徳川綱吉の生母、桂昌院が江戸城内に創建した弁財天を、元禄13年(1700)、深川の海岸に移して、徳川家の守護神とした。神社は海中の島に祀られて「絶景」と評され、文人墨客推奨の行楽地となった。
五郎兵衛たちもその景色を見たはずだが、その8年後の寛政3年(1791)9月、大雨と高潮により弁財天をはじめとして付近の家屋がすべて流失し、多くの死者・行方不明者が出た。以来、幕府は付近を空き地とし、居住を禁止した。現在の洲崎神社に残る石垣「波除碑」(なみよけひ)は、この災害の史跡である。
注33 深川八幡宮=深川の通称で知られる富岡八幡宮(江東区富岡1丁目)。寛永4年(1627)の創建で、周辺の砂州を埋め立てて6万坪を超える社有地を得た。江戸最大の八幡宮で、徳川将軍家に手厚く保護された。門前町も発展し、現在の門前仲町ができた。
貞享元年(1684)、幕府が境内で春と秋2場所の勧進相撲を許可した。本場所は後に本所・回向院へ移ったが、富岡八幡が現在まで続く大相撲の起源と言える(明治33年、歴代横綱の顕彰碑が建立され、今も新横綱の名前が刻まれている)。
注34 芝居見物で堺丁=明暦の大火後、江戸の大芝居三座と呼ばれる中村座、市村座、森田座が日本橋界隈葺屋町堺丁、築地界隈木挽町五丁目で興行していた。五郎兵衛の旅から59年後の天保13年(1842)、天保の改革の時に、すべて浅草観音の裏に移転させられた。
注35 中村勘三郎=なかむら・かんざぶろう。初代は江戸歌舞伎の祖、猿若勘三郎。寛永元年(1624)、江戸・中橋南地(現在の中央区京橋1丁目付近)に猿若座を創設した。後に勘三郎は本来の姓である中村に改名し、芝居小屋も中村座とした。
注36 団十郎=市川団十郎(いちかわ・だんじゅうろう)。歌舞伎十八番の「暫」しばらく)など、荒々しく豪快な演技が特色の「荒事」(あらごと)の創始者が、元禄時代(1688〜1704)に活躍した初代団十郎。五郎兵衛が見た団十郎は、安永・天明・寛政(1772〜1801)に活躍した5代目。1人7役早替わりなども演じた芸達者であり、大田南畝(蜀山人)、山東京伝らとも親交があり、自らも狂歌を詠じる教養人だった。
注37 半四郎=岩井半四郎。初代は大坂の人だったが、4代目(1747〜1800)は江戸の人で、女形(おやま)の家としての岩井家の基礎を築いた。五郎兵衛が見たと思われる4代目半四郎は、丸顔で「お多福半四郎」と呼ばれたと伝えられる。
注38 菊之丞=瀬川菊之丞(せがわ・きくのじょう)。初代は俳号を路考(ろこう)と言い、「〇〇路考」と言えば美人の代名詞と言われるほどの女形だった。五郎兵衛が見たのは3代目。大坂の出身だが、乞われて3代目を襲名した。舞踊の名手であり、4代目岩井半四郎とともに「女形の両横綱」と称された。
注39 火縄代に二十文=ヒノキの皮や木綿糸などを縒って、これに硝石をまぶしたのが火縄。火持ちがよく、火縄銃の点火に使われることは知られているが、江戸時代の芝居小屋では、観客の喫煙用に売られていた。五郎兵衛らも客席で煙管煙草を吸いながら、観劇していたことがわかる。
注40 根津権現=文京区根津1丁目にある神社。「江戸名所図会」によると、祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)で、向かって左側に山王権現(さんのうごんげん)、右側に八幡宮があった。6代将軍徳川家宣にゆかりがあり、広い境内には四季の花が絶えず「遊観の地なり」と紹介されている。また、五郎兵衛たちが訪れた頃は、門前に岡場所があったという(岡場所は天保の改革で吉原に移転させられた)。
根津権現は現在も、7千坪もの広い境内があり、往時の姿を伝えている。
注41 笠森明神=笠森稲荷。笠森を瘡守(かさもり)と解して、梅毒のカサブタのできる梅毒を治す神として信仰された。治癒を祈る時には土の団子を供え、満願の時に効があれば米の団子を供えた。
稲荷社のあったのは谷中(台東区)で、門前の水茶屋「鍵屋」の看板娘「お仙」を絵師・鈴木晴信が美人画に描いたことが大評判となり、お仙見たさに稲荷社への参拝客が激増したという。五郎兵衛の頃は、お仙はすでに嫁入りしていて、その姿は見られなかったが、江戸の土産話にと稲荷社を訪ねたのかもしれない。
注42 七面大明神社=「しちめんだいみょうじん」は、「七面天女」とも呼ばれ、日蓮宗では法華経を守護するとされる女神。七面山は、日蓮が開いた総本山身延山久遠寺(山梨県)西側にそびえる標高1982メートルの高山で、守護神の大明神を祀る山とされた。七面大明神も、日蓮宗の広まりとともに各地の日蓮宗寺院でも祀られるようになった。
五郎兵衛が訪れたのは、『江戸名所図会』に「延命院といへる日蓮宗の寺に安置す」とある七面大明神で、延命院は4代将軍家綱の乳母三沢局(みさわのつぼね)の開基とされ、当初から多くの参詣人を集めた。特に大奥からの信仰を集めた。延命院は今でも、荒川区西日暮里3丁目にある(JR山手線・日暮里駅から徒歩3分)。
注43 浅香山=この地名は見当たらない。東京都北区にある飛鳥山の誤記と思われる。飛鳥山は8代将軍吉宗が桜を植樹させ、花見の名所として江戸市民の人気を博した。
注44 正雪=慶安2年(1649)、幕府転覆を企てたとされる由比正雪のこと。しかし密計は事前に発覚し、正雪は駿府(現在の静岡市)で自害した。
注45 王子の正一位稲荷明神=王子稲荷(北区岸町1丁目)。江戸に稲荷神社は数多かったが、その中でも最も古い神社のひとつで、八幡太郎義家の父、源頼義に信仰されたという。江戸時代には、東国33か国の稲荷社の総本社に位置づけされていた。毎年、大みそかの夜には、諸国の狐が集まり、その狐火の行列が壮観だという「王子の狐」という民話や、江戸末期にできた落語「王子の狐」でも知られる。『江戸名所図会』には「はるかに都下をはなるるといえども、常に参詣人絶えず、月ごとの午(うま)の日にはことさら詣人群参す」と紹介されている。
注46 王子に権現社=現在の王子神社(北区王子本町1丁目)のこと。平安初期に、この辺りを支配していた豪族の豊島氏が、紀州熊野権現の遥拝所として建立したと伝えられる。江戸時代になると、徳川家康が土地を寄進し、将軍家祈願所とした。8代将軍吉宗によって厚く保護され、吉宗は隣接する飛鳥山の土地を神社に寄進し、山のケヤキを伐って数千本の桜を植樹した。
注47 常盤橋御門=江戸城外郭の正門とされた枡形門。今は常盤橋公園(千代田区大手町2丁目)となっている跡地は、三越百貨店本店から大手町へ抜ける道路が日本橋川を越えたところにある。現代人も同じだが、この場所に立てば、五郎兵衛たちも江戸城の広さを実感したことだろう。
注48 大名小路=現在の千代田区大手町から丸ノ内一帯は江戸時代、両側に大名屋敷が並んでいたことから「大名小路」と呼ばれた。JR東京駅前の丸ビル、新丸ビルの東側を南北に延びる都道にあたり、現在も愛称として使われている。五郎兵衛たちの足跡に従えば、常盤橋御門を通過して江戸城外郭内に入った所が大名小路で、「江戸切絵図」にも「御曲輪内大名小路絵図」の一枚がある。
注49 御丸之内=江戸城外堀の内部を示す「御曲輪内」(おくるわうち)だったことに由来する地名。JR東京駅にも「丸の内口」があり、現在は日本の代表的なビジネス街のひとつでもある。
注50 大手先=江戸城大手門前の広場。
注51 大下馬=江戸城大手門内外の下馬すべき所。下馬の印に大きな木、または石を置いた。
注52 桔梗御門=「ききょうごもん」。別名「内桜田門」。江戸城本丸の南口通用門で、大名や諸役人の本丸登城は大手門と桔梗門の2か所と決められていた。外郭門である桜田門を入って、堀を越えた所にある。
注53 坂ノ下御門=西ノ丸大手門と桔梗門の間にある。現在は宮内庁の正門。
注54 紅葉山=江戸城西ノ丸の北側にある小さな丘。元和4年(1618)、徳川家康をまつる東照宮を創建。寛永16年(1639)、御書物蔵が置かれた。
注55 瀧ノ口という船着き場=江戸城関係の各種史料を精査しても「瀧ノ口」という場所は見つからない。この道中記を解読した旧増田町文化財協会の誤読と思われる。なぜなら「龍ノ口」という地名は確実にあるからだ。テキストの陰影を見ると、どちらとも言えそうな崩し字だ。というわけで、以下「龍ノ口」と読んで解説を進める。
現在の千代田区丸の内1丁目4番地の旧町名が「龍ノ口」だった。JR東京駅の丸の内口を出て、正面の広い通りを皇居へ向かい、内堀を越えた所に船着き場があった。城の内堀の水を日本橋川へ流す道三堀(どうさんぼり)につながっていて、江戸城で必要な物資を運ぶ船が往来していた。
注56 西ノ丸大手先口=西ノ丸大手門は現在、皇居正門として使用されている。
注57 和田倉門=江戸城東側の外堀に面した門のひとつ。今は石垣が残っているだけ。江戸城で使う諸物資を一時的に保管する倉があった。
注58 外桜田御門=今の桜田門。
注59 虎ノ口御門=西の方位を守るという白虎にちなんで、江戸城の外桜田門から初期の東海道への関門として慶長11年(1606)に築かれた。現在の港区虎ノ門の地名の由来。
注60 愛宕山社=愛宕山権現社。徳川家康が征夷大将軍となった慶長8年(1603)、建設の始まっていた城下町江戸の防火を祈って創建した。「天下取りの神」として多くの大名が分霊を持ち帰り、各地に愛宕神社が建てられた。
海抜26メートルの愛宕山は、天然の山としては東京23区の最高峰。NHKの前身、社団法人東京放送局(JOAK)は大正14年7月から昭和13年(1938)まで、ここからラジオ放送の電波を発信した。
江戸時代も、山頂からの景観を見るために多くの人が登った。頂上に直登する傾斜40度の男坂があり、講談の「寛永三馬術」で丸亀藩士・曲垣平九郎(まがき・へいくろう)が見事に上り下りしたという石段がある。
注61 芝増上寺=港区芝公園にある浄土宗の大本山。もと光明寺と称し、真言宗の寺だったが、元中2年(1385)、浄土宗に改宗し、増上寺と改め、慶長3年(1598)、徳川家康の菩提寺と定めて現在地に移した。
注62 公方様の御魂屋=本堂をはさんで南北に2代秀忠、6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂と、将軍の御霊屋が並んでいる。
注63 芝神明社=東京都港区芝大門1丁目。平安時代の寛弘2年(1005)、武蔵国に伊勢神宮を勧請して創建されたとされる。飯倉神明、日比谷神明、あるいは「関東のお伊勢様」とも呼ばれる。源頼朝が神領を寄進し、東国の武家に崇敬された。代々の徳川将軍家にも庇護された。増上寺に隣接しており、東海道を往来する旅人が参詣する神社であり、それを当て込んだ繁華街となった。
注64 十一日に江戸を出立=九日と十日の記録がない。
注65 泉岳寺=山号は万松山。徳川家康が桜田門近くに創建したが、火災で焼失し、3代家光が現在地(港区高輪2丁目)に再建した。橋場総泉寺、芝青松寺とともに曹洞宗江戸三大寺のひとつ。「江戸名所図会」には、現在の3倍もあった広大な境内が描かれている。
注66 浅野様の菩提所=赤穂藩浅野家の菩提寺で、江戸城内で刃傷事件を起こして即日切腹となった長矩と、主君の仇(かたき)として吉良上野介を討ち果たした家臣四十七士の墓がある。
注67 義士四十七人の石塔=忠臣蔵で知られる大石内蔵助ら47人は「義士」と呼ばれ、それぞれ石塔が建てられた。
注68 大仏如来寺=帰命山(きみょうざん)如来寺。泉岳寺の南隣にある天台宗の寺。本尊の五智如来の座像はそれぞれ高さが1丈(約3メートル)あり、芝の大仏(おおぼとけ)と称した。
注69 目黒の不動尊=目黒区下目黒にある龍泉寺の通称が目黒不動。本尊は不動明王。
注70 品川=東海道の出入り口。日本橋から2里。東海道最初の宿場で、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿、奥州街道・日光街道の千住宿とともに「江戸四宿」と呼ばれた。宿場町として発展するとともに、歓楽街としても人気を集め、五郎兵衛たちの旅から50年後の記録では「北の吉原、南の品川」と言われた。
注71 山田川の舟渡し=「山田川」という川は、江戸時代の史料にも見つからない。現在の東京都と神奈川県の境を流れる川は「多摩川」で、古くは「六郷川」と呼ばれた。関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600)6月、徳川家康がこの川に長さ120間(1間は6尺。約1・82メートルで換算すると、120間は約208メートル)の橋を架けた記録がある。しかし水害でたびたび流され、貞享5年(1687)の洪水の後は架橋せず、渡し船となった。これを「六郷の渡し」という。利用者が多く、常時十艘以上の渡し船が運航していた。
注72 川崎町=現在の川崎市川崎区。広重の「東海道五十三次」にも、六郷の渡し船と川崎宿が描かれている。
≪解説≫
いよいよ「花のお江戸」である。
4月3日、成田街道から江戸へ入った五郎兵衛一行は現在の日本橋馬喰町に宿を定めると、翌4日から精力的に歩き回る。現在の地図を重ね合わせると、現代人なら間違いなく電車、地下鉄を乗り継いで行く広さを、よくぞ徒歩で回ったと感嘆するしかない。
◇「我らのお殿様」の屋敷が最初の目的地
まず向かったのは、秋田のお殿様、佐竹家の上屋敷である。現在の都営地下鉄大江戸線・新御徒町駅の南側にあった佐竹家上屋敷のあたりは、大名、旗本など武家屋敷が立ち並んでいたが、佐竹家はことのほか大きな屋敷だった。五郎兵衛たちも自慢の土産話にできたと思われる。
そこから東方向へ道をたどり、神田、湯島、上野をめぐって、この日は浅草見物で締めくくった。浅草寺は訪日外国人観光客の大人気スポットでもあるから、昔も今も、人混みの多さは変わっていない。
翌日(4月5日)は、江戸へ入った道筋を逆にたどって両国橋で隅田川を越えた。
まず訪ねた回向院は、明暦の大火(注20、21参照)の犠牲者10万余人を供養するために創建された寺だ。そこから亀戸の天神様を目指した。今ならJR総武線の各駅停車で両国から2つ目の亀戸駅で下車し、北西へ1キロほど歩く。
さらにこの日、深川の富岡八幡宮まで足を伸ばしたのには驚かされる。今はその先まで埋め立てで広大な陸地が広がっているが、五郎兵衛たちの当時は「海岸間近」と言える場所だった。亀井戸天満宮から寄り道しなくても、2時間はかかった距離と思われる。
◇朝から晩まで芝居見物に
4月6日は、江戸の歌舞伎見物に終日を費やした。全国各地に芝居小屋はあったが、所詮「田舎芝居」と思っていた人が多かったことだろう。江戸に行ったら、話に聞くだけだった大がかりな舞台での歌舞伎を見ることには、大きな期待があったに違いない。
五郎兵衛が書き留めた役者名は、今も受け継がれている大名跡(だいみょうせき)ばかりだ。それを目の当たりにした興奮は、どれほどだったのか。しかも、歌舞伎を演じる時の衣装は、一般庶民の想像の域を超える豪華さだったはず。しかし、演目も書き残していない五郎兵衛の道中記は、なんだかそっけない。感激のあまり、文字にできなかったのかもしれないが。
◇庶民の町を見ながら王子稲荷まで
前日は芝居小屋で座りっぱなしだった反動か、翌日(4月7日)は王子稲荷まで足を伸ばした。関八州の狐が集まるという伝説で知られる王子の稲荷は、現在のJR東京駅から京浜東北線で10キロ弱の王寺駅から、さらに5分ほど歩く。
行きは谷中、根津と、今でも東京の下町の風情を残す庶民の町を通り、帰りは、現在の王寺駅からほんの少し戻り道になる飛鳥山を散策した。ここは庶民の花見で大賑わいする山だった。この行程を見ると、五郎兵衛たちはかなり綿密に江戸見物の下調べをしていたと思われる。
◇さすがは将軍様の城下町!
現在のJR東京駅八重洲口の前を横切る大きな通りは、「外堀通り」という。その名の通り、ここはかつて江戸城の外堀だった。それを埋め立てて広い自動車道にしたのは、終戦後のことだ。江戸時代は外堀にいくつもの橋があり、城門が備えられていた。4月8日に五郎兵衛一行が通過した常盤橋もそのひとつである。この道筋は今もはっきり残っている。日本橋の三越本店から大手町へ抜ける通りだ。と言えば、ピンとくる人も多いのではなかろうか。そう、正月の名物レース、箱根駅伝の最後の直線コースである。
外堀から、城の内堀までの広大な土地には、現在の東京駅の場所を含めて大名屋敷が立ち並んでいた。それを庶民が自由に散策できたのは、江戸時代がいかに平和だったかを物語ると言ってもいい。本来「外敵に備える構造」の城下町が、その必要がなくなったのが江戸なのである。そして五郎兵衛たちは愛宕山の上から江戸の町並みを眺め渡し、将軍家の菩提寺である芝の増上寺まで行った。増上寺は今でも広大な敷地を持っていて、徳川家の威勢をしのぶことができる。
現在の増上寺の山門をくぐると、本堂の背後に東京タワーが見える。五郎兵衛たちが江戸市街地を見下ろしたのは愛宕山からだが、その眺めを今は東京タワーから見ることができる……大きな街を上から見たくなるのは昔も今も同じだと思うと、なんだか楽しい。
◇いよいよ東海道へ
大名屋敷を見物して増上寺まで行ったのが4月8日だが、道中記は次に「11日に江戸を出立」となっていて、9日と10日はどうしていたのか、2日間の記録がない。ここまでの好奇心旺盛な動きからは、まさか宿で休んでいたはずはないと思われるが、記録がないのは、後世の我らからは残念なことだ。
それはしかたないとして、江戸の最後の日は、「忠臣蔵」で知られる赤穂藩主・浅野内匠頭と、その仇を討った忠臣47人の墓がある泉岳寺を訪れている。この仇討ちは、義挙から50年近くも経った寛延元年(1748)に、時代を室町時代に変え、登場人物もそのころの人を登場させた人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が大坂で演じられ、さらに歌舞伎の演目として人気を博したことにより、広く知られるようになった経緯がある。五郎兵衛たちが泉岳寺を訪ねたことで、「忠臣蔵」がすでに全国的な人気となっていたことがわかる。
「江戸からの町続き」と五郎兵衛が記した品川は、東海道の最初の宿場でもある。そこから現在の多摩川を越える渡し場まで、何の記述もない。その間の現在の東京都大田区は、まったくの農村地帯だったからだ。
当時の「六郷の渡し」を越えれば川崎宿。ただし、現在の神奈川県の大半は相模国だが、川崎市は全域が江戸と同じ武蔵国だった。
|