Vol.1242 2024年10月19日 週刊あんばい一本勝負 No.1234

コメと接写と秋の夕暮れ

10月12日 近所のスーパーで「サキホコレ」2キロを1700円でお米を購入。農家でもないのに米を買ったことはない。「米はもらうもの」と信じて生きてきた。今年の秋田の米の作況指数は「やや良」(102)。全国的には16年産以来の高い水準のようで、あの夏場の米騒動は何だったのか。ただし作況指数はあくまでモミの収量だ。品質が悪ければ精米できるものが少なくなるから、収量は落ちる。

10月13日 今年は「あきたこまち」が誕生して40年。大潟村が生まれて60年、この2つには農業という以外、共通点がなさそうに思えるが共通点がある。大潟村はモデル農村として華やかにデビューしたのだが、そこで作られる米はお世辞にもうまいものではなかった。国の造ったお米工場のようなイメージだ。それが一挙に変わったのは、1984年に登場したあきたこまちだ。このスーパースターの登場で、秋田の米の評価は180度転換。「秋田の米はうまい」という評判が生まれ、逆にまずい米の代表・大潟村は、見事にこのこまちフィーバーの波に乗り「大潟村の米はまずくない」という路線変更戦略を成功させたのだ。あきたこまちというスーパースターの一番の恩恵を受けたのは、ほかならぬ大潟村だ。

10月14日 高村薫『土の記』(上下巻・新潮社)読了。高村のミステリー仕掛けのドラマチックな定番の物語とは真逆の、静かで事件の起こらない珍しい物語だ。主人公の伊佐夫は70代。認知症のはじまった農民で毎日、土を耕し、鯰や犬と遊び、茶畑の見回りをする。妻の裏切り(自殺)があり、娘はアメリカに移住し、孫娘はテニスに夢中だが、事件というような事件は起きない。代わりに日々の農作業がまるで「理科の実験室」のように子細に描写される。物語は伊佐夫のモノローグ形で進行する。日々の出来事がまだらボケのように過去と交錯し、行きつ戻りつ、落としどころのないまま、ダラダラと続く。その語りのうねりのようなものが物語のダイナミズムになっている。帯文には「始まりも終わりもない、果てしない人間の物思いと、天と地と、生命のポリフォニー。」とある。科学的に裏付けされた農業の知識だけでも一読の価値がある。昔、ある有名な編集者から、「医学の世界を舞台にした小説を書くことになった石川淳は医学書を徹底的に読みこみ、連載終了時には本物の医者と対等に論争できた」と聞いたことがあった。そんな作家の凄さを、この本の高村薫にも見た。

10月15日 3連休はけっこう有意義に過ごした。というのも、いつもの散歩コースをカメラを携えて観察撮影したからだ。テーマは「拙者の散歩道」。拙者は「接写」のダジャレで、いつも見慣れている風景を接写してみると驚くようなモダンアートが隠れている。普段見過ごしている小さな風景を狙って撮る。街角や路上の構造物の一断面を接写で切り撮っただけだが、接写になると、現代アートの絵画にしか見えなくなるから不思議だ。

10月16日 パソコンが新しいものになった。動作の速いのがうれしい。焦らず、じっくり、この機種と親しくなろう。毎日ブログを更新し、原稿を書き、調べ物をして、資料を保管する。新しく連載を始めたいのだが、それはまだ早い。使いこなせるようにいなったら、すぐに動き出せるように今から準備する。

10月17日 あわただしい日々が続いている。暇よりはいいのだが、この年になると忙しさが少し煩わしい。1週間ほど前から、「拙者の散歩みちーー街角の現代アート」というテーマで、カメラを持って、いつもの散歩道の意外な風景を接写レンズで撮り続けている。この仕事(?)も面白くて、かなりの時間を費やし没頭中だ。なんだかやりたいことが次から次に出てきて、結果、自分の首を絞めている。体力は確実に落ちているし、おまけに原因不明の腰痛に悩まされている。

10月18日 明日からは天気が崩れるようだ。ひさしぶりに週末の前岳コースをひそかに準備していたのだが雨じゃ無理だ。そこでSシェフにお願いして男鹿半島・舞台島のある海岸に出かけることに。遊びではない。例の「拙者の散歩みち」の撮影取材だ。なんていうと偉そうだが、ここの海岸線にはほぼ人が入らないエリアだ。だから海岸には北朝鮮や韓国から流れついた漂着物があふれて、そのままになっている。これらの漂着物を「接写」で撮影する。普段はアドヴェンチャー・ルートで、山あり谷あり崖あり洞窟ありの、なかなか面白いトレイルなのだが、今日はひたすら海岸線を歩いてゴミと向き合うだけ。もう楽しみでワクワクしているのだが、朝早いのが、やっぱり苦手だ。
(あ)

No.1234

迷惑旅行
(新潮文庫)
山口瞳
 この著者のベスト・エッセイを読み、すっかりファンになってしまった。他の本も読みたい、と思ったが、自伝的要素のある長編小説や、「江分利満氏」シリーズには食指が動かない。競馬やグルメも今ひとつ、ということで本書に行き当たった。旅エッセイだが、確か沢木耕太郎が、旅行記の最高傑作、と書いていた気がする。まずその旅の初期設定が面白い。友人である近所に住む画家のドスト氏(関保寿)と二人で日本全国、絵筆を携えて写生旅行をする紀行なのだ。絵を描くためにだけ旅をする、という設定が面白いし、同行者が編集者ではなく、近所に住む「友人」というのもいい。書名もいい。「旅」という言葉は夢を掻き立て、明るい非日常を予想させるが、それが迷惑というのだから面妖だ。「迷惑」の本来の意味は「どうしていいかわからない」状態を指す。山口は、この世のすべては迷惑と癖によって成り立っている、という。生きることは自分にとって迷惑だし、他人にも迷惑をかける。この世はすべて迷惑ばかり、というわけだ。「私に押しかけられる地元は迷惑で、歓迎ぜめのこちらも疲労困憊、迷惑至極だ」とつぶやきながら旅するエッセイが、面白くないはずがない。多くの旅エッセイを読んできたが、そのなかでもトップ5に入る面白い本だ。

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