No6
何が悲しくて、遠い県境の雨の山へ(+クマの話)
[中岳(1024m)・四角岳(1003m)―2012年11月4日(日)]
 朝4時起床。何が悲しくて、こんな暗いうちから起きなければならないのか。「早起き」ときいただけで身体が微妙に反応し、前夜はよく眠れなかった。さらに夜中じゅうずっと雨音。天気予報通りなのだが今日のメンバーから判断して中止はゼッタイにない。全員が確実に「決行」を叫ぶはず。
 案の定、集合場所の秋田高速道・北インターでは雨の中、みんな黙々と出発準備。やめようかの声は寂としてない。それには理由がある。今日の山はほとんど秋田県民にはなじみがない秋田市内からもっとも遠い鹿角市にある。岩手や青森とも県境を分けあう珍しい山で、あまりに遠いため、行く機会がほとんどない。この機会を逃せば、後はいついけるかわからない山だ。最近では高速道や交通網の飛躍的な発展、整備で、朝5時に秋田市を出発すれば夜までは秋田市内に帰ってこられる。文明はつくづくありがたい。いや、これは冗談ではない。30年前なら2泊3日の旅準備をしなければならない山旅なのだ。とはいっても車で登山口までのアプローチだけでも往復7時間、それに比べて、登山歩行時間は正味4時間。「そんな思いをしてまで、わざわざ行くほどでは」としり込みする人が多いのだ。
 もうひとつ、行かざるを得ない事情がある。メンバーの一人R子さんが県内57座(『分県登山ガイド 秋田県の山』(山と渓谷社)に記載されている全山の数)のうち、この山だけが未踏だったのだ。そのため今日の山行は彼女の秋田県内全山完全踏破の記録のかかる「特別な」日であり山なのだ。
 やめるのは簡単だが、そうなると彼女には一生恨まれることになる。彼女の記録達成も何年先になるかわからなくなる。
 ほとんど県内でも知られていない山だったが、中岳の山頂に1等三角点がある。そのことからようやく登山界に知られるようになった。
 中岳が本当のピークだが、その手前(東側)に四角岳があり、この2つをやっつけようというのだ。
 大湯温泉の町をこえ、来満橋を渡り、林道(広くて走りやすい)終点の不老倉から登りはじめた。雨はやんだりふったりだが、よくなる兆候はない。
 最初に四角岳をやっつけた。楽勝だ。そこから30分かけ西隣のピラミッド型の中岳へ。この分岐から中岳山頂部までがかなりの急坂だ。この山のハイライトといってもいいほどで、それ以外はダラダラと、というかフカブカとした落ち葉を踏みしめ、歩くのが気持ちいい秋の山道。

これが山頂

ずっとこんな道が続く
 雨がひどいので急いで山頂についてもすぐに下山。途中でお昼。ここでR子さんの完全登頂の「表彰」セレモニー。ケーキやワインまで登場して盛り上がった。
まあそれにしても、こんな雨の中、はるばる秋田市からやってきて、山中で震えながらバカ騒ぎをしているのを第3者が目撃したら、どこかのあやしげな新興宗教の秘儀かイニシエーションの最中に見えるだろうな。
 登りに2時間、下山は1時間ちょっと。印象に残ったのは山に登る前の林道の紅葉がこの秋一番にきれいだったこと。その美しい紅葉の森の中で「キジ撃ち」を経験。なんだかこれは妙に心に残っている。山で野グソできるようになった自分をほめてやりたい、っていう訳のわからない理屈なのだが、ワイルドだぜぃ。ワイルドといえば下山途中、あの動物園にいるような獣の匂い(馬糞臭とも似ている)がした。あれはまちがいなくクマ。クマの匂いがわかるようになった。これもうれしい。
 温泉は大湯にある「花海館」。加水・加温一切なしの、濁りのない透明なきれいなお湯で、ちょっと熱めが雨で冷え切った体に気持ち良かった。鹿角は果物の産地、帰りの中山集落にある果物直売所でブドウを買った。道の駅や産直といった響きに誘われて、やたらと食材を買い込むのはカミさんから厳禁されている。安くないし新鮮とは限らないからだ。もう何度も失敗しているのだが、どうしてもおいしそうに見えて買ってしまう。今回も失敗だった。ブドウの味は薄っぺらで、まずかった。長いドライブの果て、家に帰ってきたのは7時を過ぎていた。
 翌朝、事務所に出舎すると玄関前に大きなジープ。広島ナンバーである。多くはないが全国各地にいる無明舎の読者が旅の途中に訪ねてくるのは珍しいことではない。それにしても広島とは、と驚いていると車から降りてきたのは有名なクマ研究家M氏だった。広島にある「NPO法人ツキノワグマ研究所」の所長である。彼はもともと青森出身、秋田大学で動物学を学んだ、私の先輩(教育学部)でもある。クマに魅かれて広島の山中に住み暮らしてしまった人だ。
 出版の仕事を始めたころ、若き彼の『野生のカモシカ』という本を出させてもらった。それ以来だから、会ったのはかれこれ30数年ぶりだ。今回は夜の動物たちのけ本をつくるため絵本作家や編集者らと太平山にロケハンにきたのだそうだ。
 さっそく昨日、中岳で下山途中に出くわした馬糞臭について話したら、間違いなくクマだそうだ。もうひとつ最近山に登るたびに標識や掲示板が無残にクマに喰い荒されているのが目につく。昨日の中岳は特にひどくて、ほとんどの標識や方向板の文字が見えないほど喰い荒されていた。
 なぜそんなにクマは人工物である標識や掲示板にちょっかいを出すのか。疑問に思っていたことを口に出すと、「クマは揮発性のアルコール臭が好き。だから石油系の塗料でコーテングされた木の匂いに魅かれてかじってしまう」のだそうだ。M氏自身、広島の家でクマにペンキ缶を盗まれ舐められた経験があるという。林業関係者の中にはチェーンソー(電動のこぎり)をクマに盗まれたと証言した人もいるそうだ。ガソリン臭がするからだ。人間の死体も含めクマは異臭には目がないという。そうだったのか。これでようやく長い間の疑問が解けた。
 さらに今年は猛暑でブナの実が壊滅状態。だから食糧不足で里に下りてくるクマが多い、というのが定説だがM氏はそれにも異議を唱えた。
 猛暑の年、クマが里へ出没する機会が増えるのは事実だそうだ。クマはかなりの暑がりで、よく川のそばの岩や巨木に抱きついてお腹を冷やしている光景に出くわす。だがブナの実の不作は出没とはあまり関係がない。「ブナなんて不作はしょっちゅう。豊作が珍しいことぐらいクマも十分知っている。だからブナが原因ではなく、奥山のミズナラの実(ドングリ)のほうが問題」という。 
 ミズナラの不作がクマの出没回数を決めている、というのだ。奥山のミズナラの不作はクマにとって死活問題で、不作になると縄張りを超えた移動が始まる。そこでの戦いに敗れた弱い雄グマが里に下りてくる。里で人間に射殺される8割が雄グマなのを見てもそれはわかる、という。
 まだ記憶も生々しい秋田・八幡平のクマ牧場脱走事件についても興味深い話を聞かせてくれた。牧場閉鎖後、クマの処分をめぐって「射殺」を避けた秋田県の対応は高い評価に値する行為だった、というのだ。残ったヒグマは射殺するのがもっとも手っ取り早く安直な方法だが、秋田県はさまざまな関係機関と粘り強く交渉、射殺を避ける方法をとった。
 これはできそうでなかなかできない行政判断なのだそうだ。米田氏は似たようなケースに何度も立ち会ってきた。ここで「射殺」を選ぶと世界中の動物愛護団体からの批判が殺到する。さらに県へのイメージダウンは計り知れない。「殺さないで教育県として大きなイメージダウンを避けることができましたね」。
 昔の話だがお隣の岩手県松尾村のあたりで、とてつもなく大きなクマの出没情報があった。M氏も調査に赴いたのだが、その足跡の大きさはとてもツキノワグマのものではなかった。本州にいるはずのないヒグマの疑念が残った。その時も、件のクマ牧場からの脱走ヒグマの可能性が取りざたされたことがあったそうだ。
 ヒグマはツキノワグマとはまったく違う種類の動物と考えたほうがいい、と言う。以前、北海道大学と共同でヒグマに無線機をつけて行動調査をした時、麻酔銃で眠らせたヒグマに無線機を取り付けた後、麻酔が覚めた後のヒグマの行動を監視していたら、覚めたヒグマはいきなり人間に突進してきた。念のために配置していたハンターによってヒグマは射殺されたが、すさまじい凶暴、攻撃性をもっていて、とてもツキノワグマと同等には論じられない、という。

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●No.1 草紅葉の海で、なぜかパエリア
●No.2 贅沢お昼と、お気に入り温泉
●No.3 白神のブナの森を彷徨う
●No.4 南八幡平の自然休養林を歩く
●No.5 巨木の森で、雨に追われて

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